がんのワクチンと聞くと、インフルエンザの予防接種のように「打てば防げる」ものを想像するかもしれない。だが今、世界の製薬業界が本気で取り組んでいるのは、すでにがんになった患者の体に、その人だけのがん細胞を狙い撃ちさせる「個別化ワクチン」だ。
問題は、それを作るのにとてつもない手間がかかること。患者ごとに腫瘍の遺伝子を読み解き、一人専用のレシピを組み立てなければならない。ここに中国企業がAIを持ち込んだ。
北京に建つ「オーダーメイドがん治療」の工場
北京を拠点とする力康生命科学(Likang Life Sciences)が、AIを使った個別化がんワクチンの製造ラインを建設している。中国では初の試みだという。場所は北京経済技術開発区で、稼働は2026年10月を予定している。
総投資額はおよそ1.1億元(約16億1000万円)。細胞治療の研究室と、薬の研究・製造センターを併せ持つ施設になる。
主力製品は「LK101」と名付けられた個別化がんワクチンだ。仕組みはこうだ。まず患者の腫瘍からDNAを取り出し、そのがんに特有の遺伝子変異を突き止める。その変異に合わせてワクチンを設計すれば、免疫が「これが敵だ」と覚え込み、がん細胞だけを攻撃するようになる。
カギは「1日で終わる」スピード
このアプローチで一番のネックになってきたのが、解析にかかる時間だった。患者ごとに膨大なデータを処理する必要があり、従来は時間も人手もかかる。治療が必要な患者にとって、待ち時間は文字どおり命に関わる。
力康が掲げるのは、このDNA解析の工程をAIで自動化し、わずか1日で完了させるというものだ。人の手でやっていた作業を機械が肩代わりすることで、診断の精度を上げつつ、一人ひとりに合わせた治療を現実的なスピードで届けられるようになる。
がんは中国で死因の第2位を占めており、需要の大きさは言うまでもない。
AIが製薬を飲み込み始めた
この動きは力康1社の話にとどまらない。バンク・オブ・アメリカのアナリスト、アレック・ストラナハン氏は「AIは手作業のワークフローを自動化し、診断精度を高め、個別化された治療戦略を可能にする、説得力のある解決策だ」と指摘する。
実際、世界のAIヘルスケア市場は2035年までに1兆ドルを超えると予測されている。製薬という、これまで人間の専門知識のかたまりだった分野に、AIが本格的に食い込んできた格好だ。
中国がこの領域で「国内初」の製造ラインを動かそうとしている意味は小さくない。AIの社会実装が、検索やチャットといった身近なところを飛び越えて、人の生死に直結する医療の現場へと進み始めている。10月、北京の工場が動き出したとき、その答えの一端が見えてくるはずだ。